哲学は世界を知るための思考方法としては枯れてしまったのか?

まろん


先日、こんなnoteの記事を読んだ。 記事中で取り上げられているのは、物理学者と分析哲学者が『時間』(特に「現在」という概念の有り様)について対談を行った後、物理学者側であった谷村氏がその対談について補足・総括したノート(以下谷村ノート)である。 この谷村ノートは哲学及び哲学者を強く批判する内容となっており、note筆者は強い情動的反応を感じたようだ。 私も谷村ノートを軽くではあるが目を通し、自身の哲学に対する直感と符合する部分があったため、門外漢ながら今回このトピックを執筆することにした。 私は意識や認知の有り様に興味を持っており、それらに関する著作を読んできた。 最近読んで感銘を受けたのはアンディ・クラークやダニエル・カーネマンの著作であるが、それらに共通するのは「認知、意識とは単一のコンポーネントではない」という視座である。 内容についてはエビデンス2などを見ていただきたいが、例えば「現れる存在(ダニエル・カーネマン)」「生まれながらのサイボーグ(アンディ・クラーク)」では、環境の身体化、外的環境による認知の拡張がメインテーマとなっている。 一例をあげると認知症の患者がメモや家具の配置などを認知的トリガーとすることで、他の環境では生活不能であるはずなのに長年住んでいる家では普通に生活している、というような話だ。 上の例は認知症患者についてだが、こういった認知の外部化が種の生態として組み込まれていることも少なくない。 他にも例を上げればキリがないが、要するに何が言いたかったかというと、意識というものも外的環境との相互作用によって生まれる反応の連続に過ぎず、その意識によって生み出された言語は世界を正しく表象しているとは限らないと私が考えている、ということだ。 そのためか、カントの「純粋理性批判」を読んだ際に(深く読み込んだとは到底言えず、的外れである可能性は大きくあるのでその場合はディスカッションに。)言語と内省によって意識を分析しようとする手法に大きく違和感、というよりは古いパラダイムでのやり方でしかないのではないかという印象をもっていた。 そこで谷村ノートを読み、「言語と内省をもっぱらの武器とする哲学という手法自体がもう古いのではないか」という疑問が頭をもたげたのだが、皆さんはどう考えるだろうか。